LOGIN夜十一時を過ぎていた。
風呂から上がり、ベッドの上で適当にスマートフォンを眺めていた俺は、夏目陽菜から届いた一文を見たまま動けなくなっていた。
『香坂君って、好きな匂いって他にもある?』
たったそれだけの文章である。
普通に答えればいい。
コーヒーとか、雨上がりの土とか、新しい本とか、そういう無難なものをいくつか書けば済む話だ。
なのに、実際に「好きな匂い」と言われて最初に頭へ浮かんだのは、どう考えても無難とは言えないものだった。
陸上部の練習を終えたあとの陽菜。
汗と日差しと、洗剤と、少しだけ残った柑橘系のボディシート。
「……何で真っ先にそれなんだよ」
声に出してから、自分で余計に恥ずかしくなった。
返信欄には何度も文字を打って
第53話 試合前の彼女に、好きって言わないほうがいい日もある 大会当日の朝、俺は予定より四十分早く目が覚めた。 別に俺が走るわけではない。 それなのに、目覚ましが鳴る前から妙に意識がはっきりしていた。昨夜、二十七分も電話したせいで寝不足になるかと思ったが、むしろ逆だったらしい。 スマートフォンを見る。 陽菜からのメッセージはない。 当然だ。 向こうはもっと早く起きているはずだし、今日は朝から部員として動いている。昨日決めた通り、俺からも試合前に余計な連絡はしない。 それでも一度、メッセージ欄を開いてしまった。『頑張れ』 打って。 消す。『緊張してる?』 もっと駄目な気がして消す。 最後。『今日は見てる』 そこまで書いて、また消した。「……何やってるんだ、俺」 自分で決めた。 会場へ着いたら一度だけ連絡する。 それまでは何もしない。 だから。 スマートフォンを伏せた。 朝食。 着替え。 電車。 その全部が、普段より少しだけ落ち着かなかった。 会場の競技場へ到着したのは、最初の種目が始まる少し前だった。 休日の競技場は、大学とはかなり空気が違う。 土と芝。 日焼け止め。 汗。 スポーツドリンク。 テーピング。 外だから、交流祭ほど匂いがこもってはいない。人も多いが、空気が動く分かなり楽だった。 俺は観客
第52話 彼女の大会の日、彼氏はどこまで応援していい? 陽菜の大会まで、あと四日。 昼休み。 俺たちは大学の中庭ではなく、講義棟の端にある小さな休憩スペースで向かい合っていた。 理由は単純。「ここなら人少ないから、ちゃんと話せるでしょ」 陽菜が言った。「大会の日の彼氏運用会議?」「その言い方やめて」「でも内容はそうだろ」「もう少し恋人っぽく言って」「じゃあ、大会の日どうするか相談」「それでいい」 陽菜は、コンビニで買ったサンドイッチの袋を開ける。俺はアイスコーヒー。昼食としては少ないが、午後の講義が終われば蒼と何か食べる予定だった。「で」 俺が先に言う。「昨日の確認から」「うん」「俺は大会見に行きたい」「はい」「陽菜も来てほしい」「来てほしい」「でも競技中は彼氏感出しすぎないでほしい」「その言い方ちょっと嫌」「お前が昨日言った」「『彼氏しすぎないで』とは言ったけど」「同じじゃない?」「彼氏感って何か、ちょっと存在が邪魔みたい」「そういう意味じゃない」「分かってるけど」 少し。 すでに難しい。「じゃあ」 言い直す。「大会中は、陽菜が競技に集中できる距離でいる」「それ」「採用?」「採用」 陽菜は満足そうに頷いた。「まず」
第51話 夏になると、彼女の匂いは少し変わる 六月の終わり頃から、大学の空気は目に見えて変わった。 講義棟の窓は朝から開いているし、学生ホールでは冷たい飲み物ばかり売れるようになった。外を歩けば、まだ真夏ではないのに日差しだけは妙に強く、昼休みに中庭を横切るだけで背中へ汗が浮く。 そして、陽菜の匂いも少し変わった。 そのことに気づいたのは、陸上部の練習が終わった陽菜と駅前で待ち合わせた日のことだった。「ごめん、待った?」「五分くらい」「それなら待ってない扱いでお願いします。今日最後に一本追加されて、着替えるのも遅くなった」 陽菜はそう言いながら、首元を手で扇いだ。ポニーテールの先がまだ少し湿っていて、額には細かな汗が残っている。以前なら、俺と会う前にもっと念入りに拭いてきたはずだが、最近はそこまで神経質ではなくなった。「暑い」「見れば分かる」「彼女が暑がってるんだから、もう少し優しいこと言えない?」「冷たい飲み物買う?」「それ。そういうのでいいの」「じゃあコンビニ」「悠真も何か飲む?」「コーヒー」「この暑さで?」「アイス」「そこは安心した」 二人で駅前のコンビニへ向かう。 歩き始めてすぐ、俺はいつもと違う匂いに気づいた。 汗。 シャンプー。 洗剤。 そこへ、少し甘さのある日焼け止めの匂いが混ざっている。春にはほとんどなかったものだ。 さらに制汗剤も変わっていた。 以前使っていた、かなり強い香りのものではない。もっと軽い。柑橘っぽいが、すぐ消えるタイプ。 俺は。 そこで
第50話 変な好きでも、笑わない場所 交流祭終了のアナウンスが流れたのは、夕方五時を少し過ぎた頃だった。 学生ホールの人波が、ゆっくり外へ流れていく。 朝からずっと人がいたせいか。 急に静かになると。 少し変な感じがした。「終わったね」 陽菜が言う。「うん」「長かった」「かなり」「悠真、途中かなり休んだけど」「そこ言う?」「大事」「もう反省した」「本当に?」「かなり」「次また無理したら?」「怒られる」「誰に」「陽菜」「私だけ?」「神崎先輩と久我にも」「よし」 完全に管理対象になっている。 でも。 今日は。 それでいい気もした。 俺たちは。 少しずつ片付けを始めた。 匿名カード。 模造紙。 風船。 受付用の机。 案内板。 そして。 陽菜の体験文。『高校生の頃、同級生に汗の匂いのことを言われてから、私は自分の匂いが嫌になりました。』 そこから始まる。 一枚の文章。 交流祭前。 出すかどうか。 何度も悩んだ。 文章にする時も。 俺とかなり揉めた。 それでも。 最後は。 陽菜自身が。 出すと決めた。 その文章の横。 小さな感想カード。『自分の嫌いなところを、すぐ好きにならなくてもいいって初めて思いました。少し救われました。』 陽菜は。 まだそれを持っている。「それ」 俺が言う。「何」「持って帰る?」「うん」「展示物として保管しない?」「これは」 陽菜が少し考える。「私が持ってていい?」 神崎先輩へ聞く。「もちろん」「本当に?」「書いた人の個人情報もないし」「はい」「陽菜ちゃん宛てに近い感想だから」「じゃあ」 陽菜は。 カードを。 大事そうに財布へ入れた。「なくさない?」「悠真のカードもまだある」「あれ財布?」「うん」「一緒?」「別のところ」「何で」「折れたら嫌だから」「そんな大事?」「大事」 以前。 俺が書いた。『一緒にいると、自分が少しまともになるところ。』 それも。 まだ持っているらしい。「悠真は?」「何が」「私のカード」「手帳」「まだ?」「ある」「見せて」「今?」「確認」「信用ない?」「あるけど見たい」 俺は。 バッグから手帳を出す。 少し奥。 透明のポケット。『
第49話 俺の嗅覚、イベント会場では最悪でした 人より匂いが分かるという話をすると、たまに羨ましがられることがある。「料理の匂いだけで何入ってるか分かるの?」「好きな人が近くにいたら気づける?」「香水とか当てられる?」 そういう時、俺はだいたい適当に答えてきた。分かる時もあるし、分からない時もある。そもそも嗅覚が少し鋭いだけで、何でも当てられる特殊能力ではない。 それに、良いことばかりでもない。 むしろ人が多い場所では、余計な情報まで拾うせいで面倒になる。 春季交流祭当日の昼過ぎ、俺は改めてそのことを思い知らされていた。「香坂君、入口側どう?」 神崎先輩に呼ばれ、俺は展示板から視線を外した。「今のところ大丈夫です。受付の前だけ少し詰まってるので、記入カードをもう一つ奥へずらしたほうがいいかもしれません」「分かった。じゃあ私動かす」「俺やります」「いや、香坂君は今全体見てて」「でも近いので」「だから私がやるって」 神崎先輩が机を動かし始める。 俺は一歩遅れて手を止めた。「……じゃあお願いします」「珍しく素直」「今それ言います?」「最近ずっと運営責任者みたいな顔してるから」「責任者じゃないです」「顔は完全にそう」 神崎先輩は笑っていたが、俺にはそこへ返す余裕があまりなかった。 人が増えている。 それ自体は嬉しい。 フェチ研の展示は、想像していたより明らかに人を集めていた。 澪先輩の字に惹かれて入ってくる人。匿名カードを見て友達同士で笑う人。陽菜の体験文の前で立ち止まる人。自分の「好き」を書いて、少し恥ずかしそうに箱へ入れる人。 企画としては成功している。 問題は。 成功すればするほど。 匂いも増えることだった。 まず人。 香水。 整髪料。 柔軟剤。 制汗剤。 汗。 ハンドクリーム。 コーヒー。 学生ホールの向こうで売られている焼き菓子。 さらに外から風が入るたび、屋台の油とソースの匂いまで混ざってくる。 一つずつなら。 別に平気だ。 でも。 同時に来る。 しかも。 人が動くたび変わる。 俺の頭は。 勝手にそれを拾う。「香坂君?」 澪先輩の声。 俺は少し遅れて反応した。「はい」「今呼んだ」「すみません」「大丈夫?」「何がですか」「反応遅かった」「ちょ
第48話 白石先輩の字が、いちばん人を集めました 春季交流祭前日。 学生ホールで展示タイトルを試しに掲げた時。 最初に足を止めたのは、フェチ研に興味がある人ではなかった。「字、めっちゃ綺麗」「これ手書き?」「すごくない?」 通りかかった女子学生二人が。 澪先輩の書いた、『好きって、どこから?』 を見上げている。 その下には。『あなたの「好き」は大切。でも、相手の「嫌」も同じくらい大切。』 さらに小さく。『好きは、誰かの境界線を越える許可証ではありません。』 全部。 澪先輩の字だった。「写真撮っていいのかな」「展示始まってないし、やめとく?」「でも字だけでも見たい」 女子学生たちは。 少し離れたところにいる俺たちへは気づいていない。 そのまま。「こういう字書ける人いいな」「分かる。ノート借りたい」 と話しながら去っていった。 俺は。 その様子を見たあと。 澪先輩を見る。「白石先輩」「……何」「かなり固まってますけど」「うん」「大丈夫ですか」「多分」「嫌でした?」「嫌じゃない」「じゃあ」「恥ずかしい」 かなり小さい声。 陽菜が俺の袖を軽く引く。「悠真」「何」「白石先輩、耳赤い」「見れば分かる」「珍しい」「聞こえてる」 澪先輩が言った。「すみません」 陽菜はあまり反省していない顔。「でも」「何?」「嬉しかったですか」 澪先輩は。 すぐに答えなかった。 展示タイトルを見る。「……少し」「少し?」「かなり」 陽菜が笑う。「素直」「でも変な感じ」「どこがですか」「私」 一度止まる。「人の字を見るほうだったから」 その言葉に。 俺も少し納得する。 澪先輩は。 ずっと。 字を見る人だった。 俺のノート。 付箋。 短いメモ。 最後の線。 ひらがなと漢字の違い。 本人が気づいていない癖。 かなり細かく見る。 だから。 逆になった。 今。 自分の字を。 知らない人に見られて。 評価された。「どうですか」 俺が聞く。「何が」「見られる側」 澪先輩は。 少しだけ困った顔をする。「落ち着かない」「嫌?」「嫌じゃない」「でも」「もっと勝手に見てほしくないって思うかと思った」「……」 陽菜も。 少し表情を